岸田劉生「切通之写生と麗子像―リアリズムにぬり込めた超現実」

大阪市立美術館で開催されている「岸田劉生展」とリンクした番組企画としてNHK日曜美術館が「天才画家・岸田劉生 二つの傑作と苦悩」と題して放映していました。

洋画家の諏訪敦が「日本の写実絵画には教科書が無い」「劉生は自分の実感に従って自分なりの写実を掴みたかったのだろう」と番組で語っていましたが、この言葉は諏訪敦が劉生と同じリアリズム作家であるからこその洞察なのでしょう。

当時後期印象派と言われる作家、セザンヌやゴッホ、そしてゴーギャンなどが雑誌「白樺」を通して日本に紹介され、岸田劉生もまたその影響を受けました。

後期印象派の中でもゴッホは自身の内面を色や筆使いに託してあらわしましたが、そうした表現主義的で自由な画風ではなくリアリズム(写実)を選んだ劉生は、感情が抑制された写実の中に作家の内面を表現するという独自の道「自分なりの写実」を模索して行ったと言えます。

●天才とは
私は作家の「天才性」が歴史に残る作品につながると信じています。

私の言う作家の天才性とは、ただ単に若い時から優れた技術を持っているということではなく、作家の魂が芸術に求めるレベルのことです。

芸術作品の基準は技術の積み重ねによって決定されるものではありません。

作家がこの世に生を受けたときから備えられている内的な基準、すなわち霊的な魂の基準が、表現の方法の如何を問わず、作品の芸術性を支配すると私は思っています。

技術はそのレベルに達するために自然に磨かれていきます。

言葉を換えれば、作家の霊性が技術を支えているのです。

天才たちは若い頃から生まれ持った高い霊性に値する芸術レベルを求めて描こうとしています。

天才による10代20代の若き日の作品が、もしも技術的に多少劣っっていたとしても、その高い霊性の発露として生み出されたものならば、それゆえに見るものの心を打つのです。

もちろん、技術を積み重ねながら、次第に内的にも発展してゆく画家の作品にも確固たる芸術的な価値はあります。

ピカソは、技術や芸術的発想など、あらゆる面において天才でした。

ただ、若いころから才能を発揮する天才型であろうが晩成型であろうが、画家が作品を描こうとして味わう苦悩があるとすれば、その多くは自らの魂が求めるレベルに表現技術が追いついていないからであると私は理解しています。

目指すべき基準が低い画家に葛藤はあまりないのです。

岸田劉生(1891~1929)は、まぎれもなく一人の天才でした。

●「切通之写生」が喚起するもの
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   ■岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」1915重要文化財

上に掲載した「道路と土手と塀(切通之写生)」は画家が24歳のときに描いた作品です。

絵画芸術は写真芸術と違って、対象をスケッチする際に作家の美意識に従って実際の風景を変形させます。番組が映した現代の切通の坂道の映像を見てわかったのは、劉生の坂道は実際よりも坂が誇張され、上に行くほど極端に急激な坂として描かれているということです。

そのことによって生まれる効果は、坂の向こうとこちら側の断絶であり、断絶が深いほどに「向こうに行けば何が見えるのだろうか」という興味とともに視点が遠くに運ばれ、同時に、見る者は自分の意識や潜在意識に従って心の中にいくつもの絵を描きます。

澄みわたった秋の「空」と「空気」と「光」。踏み固められた「道」の手前に落とされた二本の「影」・・・。

描かれた事物の一つ一つが、ボリュームと明確な存在感を持って迫り、見る者の内面から何かしらを喚起してくれる絵です。

この絵は高度な油絵の技術で写実的に描かれていますが、どこかしら超現実的な世界へと見る者を導いています。写実絵画の中に神秘的ななにものかを湧きき立たせることで、もう一つの現実を生み出しているのです。

劉生は、写実を通して世界と人間の内側にあるものを抽出しようと意図したのでしょう。

それは作家自身の内側に潜みうごめくものを鏡に映すように描き出し確かめようとする行為にほかなりません。

私たちもまたそうした絵を見るときに、自らの心に映し出された世界をたずねて見る必要があるのです。絵画の見方(4)「心に映るものを見る」

●作家自身の内面を映す麗子像
劉生の人物モデルとしてもっとも数多く描かれたのが実の娘、麗子です。スケッチを含めて100点ほどの麗子像を描いています。

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   ■岸田劉生「麗子像」1921重要文化財

劉生は「一見して人を打つものを描きたい」と語っており、それはモデルを写実的に正確に写しただけでは得られないものです。

また「写実は道であって目的ではない」とも語り、「形に則したもの以上の美」を求めたのです。

ときに不気味に見える麗子像です。劉生はその多くに微妙に異なる表情を付与しています。

この不気味さは作家の潜在意識の中にうごめくものの表出と見ることが出来ます。潜在意識は超現実主義つまりシュルレアリスムの領域です。シュルレアリストたちは潜在意識から造形を導き出そうとしました。

劉生の絵を見れば、超現実的な美をたずねて描いているようですがシュルレアリストではありません。

ここで、芸術的な美の深みは外的インテリア的な美しさでないことは言うまでもないことです。絵画の価値(1)「インテリア性」

人で言えばただ整っただけの美人が長い間人を惹き付けるとは限りません。長い間付き合って飽きない人間の味は外形ではなく内面から発するものです。

同様に、劉生の求めた「写実以上の美」も三次元空間を平面の二次元のイリュージョン(幻想)に移し換えただけでは表わしえません。

写実絵画でありながら写実を越えた美は、究極的には人間存在の内面に訊ねるしかないと考えます。すると劉生は、麗子(モデル)という対象を通して自分という存在の内面をたずねていったに違いないと思うのです。

一人の人間の内面は一個の宇宙に等しいことを思えば、一人のモデルに対峙し、そこに作家の内面を交流させて描くときに無限のバリエーションが生まれます。ゆえに100点の麗子像は一点一点が全部違う絵なのです。


20世紀を代表する天才画家ピカソは、自然や人物などの形状を極端にデフォルメさせはしたものの、けっして対象から離れては描きませんでした。画家の箴言(6)パブロ・ピカソ「虚構の中の真実」

ピカソが「自分はシュルレアリスムに与しない」という意味で語った次のような言葉があります。

「私はいつも自然を観察しようと思っている。私は事物との類似に固執する。一層深い、現実よりも一層現実的な、超現実にまで達する類似に。」(「語るピカソ」ブラッサイ著より)

劉生はピカソとは全く違うスタイルであるリアリズム絵画を描きながら、ピカソと同じように彼独自の超現実の美を探究したのです。

そして、私生活における葛藤などの紆余曲折を経て、新たな出発を為そうとしたとき、38歳の若さで亡くなりました。

「もし、生きていたら・・・」そんな考えはそれこそ意味を持ちません。彼はこの人生で為すべきことをやり遂げて逝ったのです。

岸田劉生は、「写実(リアリズム)絵画によって我々の内側に潜んでいる超現実の世界を見せる」という日本の近代における芸術的使命を見事に終えて旅立ったのです。


竹内栖鳳展「近代日本画の巨人」(栖鳳と大観)


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この記事へのコメント

天使の羽根
2011年10月14日 17:12
いつものことながら、解説こそ、真に迫るものがあります。言葉一つ一つが、重く心に問いかけてきます。
哲学的にも感じる視点が、何度も読み返したくなります。
2011年10月14日 19:32
コメントありがとうございます。
よい芸術作品は何度でも見ることでその深みを感じるものです。芸術作品の主観による解説ですが、解説もまたそうありたいものです。

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