ルノワール「裸婦(ヌード)」 北漢山のチンダルレ
韓国ソウルにある借家の近くに北漢山(プッカンサン)という国立公園になっている岩山があります。
5月5日、この日は天気もよく、メタボ解消のための運動を兼ねて散策しました。
家から20分くらい歩くと登山路の入口に着き、そこから渓流沿いに一気に山に登りました。
「メタボのおじさんをなめちゃいけないよ」と、我ながらすごい勢いで登ったのでした。
あくまで目的は運動ですから、甘っちょろい速度で登るわけにはいかないのです。
登ること25分。そこで「はい、それまーでーよ~」と息が切れておしまい。
まわりを見回すと登山靴に登山ウエアにリュックと皆ばっちり決め、たいていの人がサングラスまでしています。こちらときたらボロボロの運動靴にトレパンとジャンバー、首に日本の温泉旅館の名前が入ったタオルといういでたちです。もし下駄を履いていたら近くの銭湯にでも出かける格好。
「登山はカッコじゃねえんだ」と日本語で捨てゼリフを吐きながら、下山を決めました。
しかし、この山の美しさには感動しました。
登山路は渓流沿いに岩を積み上げて作られ、ところどころに渓流をまたぐ橋がかけられています。
山桜がまだ結構花を付けていました。緑の合間に白や薄桃色の花びらが眼を楽しませてくれます。それに何よりも早春に咲くチンダルレ(山つつじ)がまだ咲いているのでした。新緑の鮮やかな緑と松葉の深い緑、桜の白、そしてチンダルレの淡く紫がかったピンク。全てが朝の光を受けて輝いていました。
渓流のせせらぎの音が小さくなるあたりでは、鳥たちの声が聞こえブーンと飛ぶ虫の羽音が通り過ぎたりします。
何ヶ所かで足を止め、「進入禁止」のロープを超えて大きな岩の上に座り山を観察しました。
山桜は一部を除いてもう終わりに近く、葉っぱもだいぶ交じっています。しっかりと枝に残っている花を見ていると「シブトイ」という印象とともに強い生命力を感じます。
時々こちらのリクエストに応えてくれて、そよ風に乗せてチラホラと渓流に花びらを落としてくれるのでした。
桜の花弁は、ご存じのように5つ付いています。「スキ・キライ」とやれば必ず「スキ」で終わります。後出しじゃんけんよりも確実です。ただ、間違っても「キライ」からやらないことです。
チンダルレ(山つつじ)は花びらが薄く透明感があります。紫ピンクの色彩も淡くてとても上品です。その細い枝ぶりもまた美しい曲線を描いています。そしてチンダルれの花びらの柔らかさはまるでルノワールが描く裸婦の肌のようです。
世界は「美」に満ちています。その世界に存在するものの中でもっとも美しいのが「女性の体」と言えます。
ほとんどの西洋の画家たちが信じたキリスト教、その聖典である(旧約)聖書の創世紀に、神は万物を創ったあとに人間(アダム)を創り、アダムのあばら骨からイブを創ったとありますが、もしそうだとすれば、人間の女性が最後の被造物です。ゆえに聖書を根拠にするならば、人間の女性の体は被造物全ての頂点にあることになります。
女性の美しい体には被造万物全ての線が宿されているのです。
歴史上、画家たちはおびただしい数のヌードを描いてきました。また画学生は必ずと言ってよいほどヌードを習作します。
●ルノワール「ヌード」
ヌードをよく描いた画家の一人がピエール・オーギュスト・ルノワール(1841~1919)です。
ルノワール展・国立新美術館
ルノワールは若いころから女性像をよく描きました。ルノワールのヌードは「浴女」など自然の光と溶けあった姿が多く見られます。
■ルノワール「エチュード・若い女のトルソ・陽の効果」1975~76 オルセー美術館蔵
■ルノワール「岩に座る浴女」1892年
■ルノワール「足を拭く浴女」1910年 サンパウロ美術館蔵
■ルノワール「裸婦」1915年ころ 山王美術館蔵
■ルノワール「浴女たち」1918年 オルセー美術館蔵
晩年のルノワールのヌードは、豊満な体で、だぶついた肉まで余すことなく描いています。
こうした女性のヌードはルーベンスなどの古典絵画の影響とみてとれますが、女性を「生命を生み出す」神聖な存在と思う時にこのような力強い表現になるのでしょうか。私のメタボとは違います。
印象派が基本としたのは見たものの素直な描写ですので、ルノアールは意図的にこうした肉付きの良い女性を好んでモデルに使ったのでしょう。岡野岬石・新印象主義Neo-impressionism「世界それ自体が美しい」
ただし、女体のフォルムやボリューム感以上に、ヌードの肌を美しく照らし出す光や、自然の植物に映える光の描写こそがルノワールの真骨頂です。ルノワールのヌードからは光が織り成す「生命の輝き」を感じざるを得ません。
ルノワールは晩年に向かうほどに、モデルの形状に囚われず、世界に充満する光を描くことで、生命の輝きとよろこびを露わにしようとしました。生命の輝きとはいわば魂の輝きです。
「神ともにありて美しきかな」(ルノワール)
最晩年に発したこのルノワールの言葉は、存在の中に美を発見するために、全てを愛する目で見続けてきたからこそ生まれる実感の言葉だと思うのです。
ルノワールは存在のすべてに神性をみていたのでしょう。
美術と人生「はじめて絵を買おうとする人へ」
ルノワール展・国立新美術館
ところで、北漢山の写真は無いのかって?
カメラを持っていかなかったことを悔いています。
これで勘弁してくださいな。
■朴芳永(パク・パンヨン)「チンダルレ(山つつじ)」
朴芳永(パク・バンヨン)評論シンパラム
プーシキン美術館展(フランス絵画300年)ロシア富豪の芸術魂
李淑子(イー・スッチャ)「麦畑と裸婦」
古美術商と新画商「学びを逸した話」
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5月5日、この日は天気もよく、メタボ解消のための運動を兼ねて散策しました。
家から20分くらい歩くと登山路の入口に着き、そこから渓流沿いに一気に山に登りました。
「メタボのおじさんをなめちゃいけないよ」と、我ながらすごい勢いで登ったのでした。
あくまで目的は運動ですから、甘っちょろい速度で登るわけにはいかないのです。
登ること25分。そこで「はい、それまーでーよ~」と息が切れておしまい。
まわりを見回すと登山靴に登山ウエアにリュックと皆ばっちり決め、たいていの人がサングラスまでしています。こちらときたらボロボロの運動靴にトレパンとジャンバー、首に日本の温泉旅館の名前が入ったタオルといういでたちです。もし下駄を履いていたら近くの銭湯にでも出かける格好。
「登山はカッコじゃねえんだ」と日本語で捨てゼリフを吐きながら、下山を決めました。
しかし、この山の美しさには感動しました。
登山路は渓流沿いに岩を積み上げて作られ、ところどころに渓流をまたぐ橋がかけられています。
山桜がまだ結構花を付けていました。緑の合間に白や薄桃色の花びらが眼を楽しませてくれます。それに何よりも早春に咲くチンダルレ(山つつじ)がまだ咲いているのでした。新緑の鮮やかな緑と松葉の深い緑、桜の白、そしてチンダルレの淡く紫がかったピンク。全てが朝の光を受けて輝いていました。
渓流のせせらぎの音が小さくなるあたりでは、鳥たちの声が聞こえブーンと飛ぶ虫の羽音が通り過ぎたりします。
何ヶ所かで足を止め、「進入禁止」のロープを超えて大きな岩の上に座り山を観察しました。
山桜は一部を除いてもう終わりに近く、葉っぱもだいぶ交じっています。しっかりと枝に残っている花を見ていると「シブトイ」という印象とともに強い生命力を感じます。
時々こちらのリクエストに応えてくれて、そよ風に乗せてチラホラと渓流に花びらを落としてくれるのでした。
桜の花弁は、ご存じのように5つ付いています。「スキ・キライ」とやれば必ず「スキ」で終わります。後出しじゃんけんよりも確実です。ただ、間違っても「キライ」からやらないことです。
チンダルレ(山つつじ)は花びらが薄く透明感があります。紫ピンクの色彩も淡くてとても上品です。その細い枝ぶりもまた美しい曲線を描いています。そしてチンダルれの花びらの柔らかさはまるでルノワールが描く裸婦の肌のようです。
世界は「美」に満ちています。その世界に存在するものの中でもっとも美しいのが「女性の体」と言えます。
ほとんどの西洋の画家たちが信じたキリスト教、その聖典である(旧約)聖書の創世紀に、神は万物を創ったあとに人間(アダム)を創り、アダムのあばら骨からイブを創ったとありますが、もしそうだとすれば、人間の女性が最後の被造物です。ゆえに聖書を根拠にするならば、人間の女性の体は被造物全ての頂点にあることになります。
女性の美しい体には被造万物全ての線が宿されているのです。
歴史上、画家たちはおびただしい数のヌードを描いてきました。また画学生は必ずと言ってよいほどヌードを習作します。
●ルノワール「ヌード」
ヌードをよく描いた画家の一人がピエール・オーギュスト・ルノワール(1841~1919)です。
ルノワール展・国立新美術館
ルノワールは若いころから女性像をよく描きました。ルノワールのヌードは「浴女」など自然の光と溶けあった姿が多く見られます。
■ルノワール「エチュード・若い女のトルソ・陽の効果」1975~76 オルセー美術館蔵
■ルノワール「岩に座る浴女」1892年
■ルノワール「足を拭く浴女」1910年 サンパウロ美術館蔵
■ルノワール「裸婦」1915年ころ 山王美術館蔵
■ルノワール「浴女たち」1918年 オルセー美術館蔵
晩年のルノワールのヌードは、豊満な体で、だぶついた肉まで余すことなく描いています。
こうした女性のヌードはルーベンスなどの古典絵画の影響とみてとれますが、女性を「生命を生み出す」神聖な存在と思う時にこのような力強い表現になるのでしょうか。私のメタボとは違います。
印象派が基本としたのは見たものの素直な描写ですので、ルノアールは意図的にこうした肉付きの良い女性を好んでモデルに使ったのでしょう。岡野岬石・新印象主義Neo-impressionism「世界それ自体が美しい」
ただし、女体のフォルムやボリューム感以上に、ヌードの肌を美しく照らし出す光や、自然の植物に映える光の描写こそがルノワールの真骨頂です。ルノワールのヌードからは光が織り成す「生命の輝き」を感じざるを得ません。
ルノワールは晩年に向かうほどに、モデルの形状に囚われず、世界に充満する光を描くことで、生命の輝きとよろこびを露わにしようとしました。生命の輝きとはいわば魂の輝きです。
「神ともにありて美しきかな」(ルノワール)
最晩年に発したこのルノワールの言葉は、存在の中に美を発見するために、全てを愛する目で見続けてきたからこそ生まれる実感の言葉だと思うのです。
ルノワールは存在のすべてに神性をみていたのでしょう。
美術と人生「はじめて絵を買おうとする人へ」
ルノワール展・国立新美術館
ところで、北漢山の写真は無いのかって?
カメラを持っていかなかったことを悔いています。
これで勘弁してくださいな。
■朴芳永(パク・パンヨン)「チンダルレ(山つつじ)」
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